![]() |
III号突撃砲A型
|
||||||||||||||||||
|
歩兵支援砲は第1次世界大戦の開始までに、独自の発展をした。固定大砲が使えるのは攻撃が始まるまでで、その後は大砲を止めるか、さらに前進させなくてはならないことはすぐに明らかになった。最初の爆撃で破壊できなかった敵の砲床に対して歩兵を無防備な状態で残すことを避けるために、歩兵には戦場を牽引して移動できる軽量の連隊用カノン砲が支給されていた。 ところが、これらのカノン砲は柔らかい土壌や起伏のある地形では移動するのが困難で、敵の砲撃の的になりやすかった。多くの国はこのようなカノン砲を装甲自走車に載せることを考え始めたが、歩兵を直接支援する自走砲ユニットを製造するための要件を明確にしたのは1935年、ドイツのエーリッヒ・マンシュタインだった。最初のユニットはシャーシに試作品のIII号戦車を利用して1937年に製作された。 最高司令部は戦争が実際に始まるまで、それを量産すべきかを議論していた。しかし、いったん戦争が始まるや、この種の兵器の利用価値は極めて高いことが明らかになった。1940年、75ミリカノン砲搭載のSd.Kfz.142の量産が開始された。これは通常はIII号突撃砲と呼ばれている。 自走突撃カノン砲はドイツ軍の歩兵に戦争の前半、つまり敵が同様の兵器の製造を開始するまでの間、大きな優位をもたらした。ソ連軍の戦車が重大な脅威となり始めると、III号突撃砲は銃身を長くするアップグレードを施され、事実上、駆逐戦車になった。強力な大砲、低いシルエット、適切な装甲のおかげで、1942年に利用できた最も有効な対戦車兵器の1つになった。 後にドイツ軍はより強力な自走砲ユニットを開発したが、III号突撃砲は終戦まで利用され続けた。その数は13,000両を超え、ドイツでは、他のどの装甲車よりもIII号突撃砲が多く製造された。 |
![]() |
![]() |