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フェルディナンド自走砲(エレファント)
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1940年、ドイツは対砲撃装甲と改善された兵器を備えた新型の重戦車の設計に着手した。しかし、設計仕様がしばしば変更されたため、設計の完成は1942年まで待たなければならなかった。ポルシェ社とヘンシェル社が設計と入札工程に参加した。 ヒットラーがポルシェの戦車を非常に気に入っていたため、ポルシェ社は委員会が最終決定を下す前に独断で製造に着手した。しかし最終的には、ヘンシェル社の設計が委員会によって選ばれ、フェルディナンド・ポルシェは既に製造してしまった90両をどうしたらよいか速やかに決断しなければならなくなった。エレファントには砲塔はなく、厚く、スペースのゆったりした上部車体がシャーシに載っていた。横移動不能な88 Pakカノン砲を収容し、当時の戦車の装甲厚としては最高の200ミリの前面装甲によって防護されていた。この車体は当時のどんなカノン砲でも貫通不可能だったが、不十分なオフロード性能とエンジンの出力不足のせいで、多くの点で自走砲と類似した防衛戦車の地位に甘んじることになった。この戦車は戦線に送り込まれた2年後の1944年に、公式にエレファントと呼ばれるようになった。しかし、現在でも、その生みの親であるフェルディナンド・ポルシェ博士の名前からフェルディナンドと呼ぶ人も多い。 エレファントはクルスクの戦闘中、東部前線で名をあげた。たった1両のエレファントが1日間、1つの師団全体を恐怖に陥れ、敵の対戦車防衛の全てを抑え込んだとい報告がある。敵は翌日になってようやく重カノン砲で待ち伏せを仕掛け、直射距離から砲撃することで、エレファントの破壊に成功した。この出来事はエレファントは阻止可能だということを証明してしまっただけでなく、走行できる地形に限りがあるという欠点をも露呈してしまった。広野でさえ身動きが取れなくなってしまうこともあったほどだ。残ったエレファントの多くはイタリアに送られた。イタリアの方が、土壌に岩が多く、足場がしっかりしていたためだ。 エレファントは製造された両数が極めて少なく、そのために戦争で主要な役割を果たすことはできなかったにも関わらず、優秀なプロパガンダ兵器になった。ドイツ軍は生産両数に触れることなく、その仕様を広く宣伝した。これは敵の兵士に長い銃身を持った自走砲は全てエレファントだと信じ込ませるのに十分だったのだ。 製造と保守にかかる高コストのため、エレファントの多くは製造されることなく終わり、ほぼ全てが最終的には戦闘で破壊された。現存しているエレファントはわずか2両である。1両はロシアのモスクワ郊外にあるクビンカ博物館に、もう1両はメリーランドのアバディーン・プロービング・グラウンズに収蔵されている。エレファントは第2次世界大戦に登場した最高の自走砲ユニットの1つとして広く認められている。 |
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