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B-24リベレーター重爆撃機
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1930年代、イタリア軍将軍ドウエトはいかなる軍事攻勢においても重戦略爆撃機に主要な役割を担わせるうという構想を打ち出した。重戦略爆撃機を利用して、敵の軍事および産業施設を徹底的に破壊した後、陸軍が進入し、壊滅した敵の領土を占領すればいいという主張だった。 ドウエト将軍の理論は自国の誰からも賛同を得られなかったが、他の数多くの国、とりわけアメリカで空軍の発展に影響を与えた。アメリカは国土が空襲に対して非常に無防備であったため、戦略爆撃機こそが航空機の中でも最も重要なタイプであると考えた。そして主な目標を敵の都市や産業中枢とした。この戦略を念頭に置き、アメリカは4基エンジンの重爆撃機と護衛戦闘機を他のどのタイプの航空機よりも積極的に製造し始めた。 B-17フライングフォートレスが最も有名なアメリカ軍爆撃機と広く認識されているが、最も大量の爆弾を積んでドイツと日本に飛行したのはB-24リベレーターだった。B-24はコンソリデーテッド社によって設計され、高速で強力な上、爆弾の搭載量が極めて多く、装備も十分だった。しかしボーイングのB-17と比べた場合の最大の強みはその射程の広さにあった。 アメリカの戦略爆撃機は敵の戦闘機から自身を防護するために大口径の機関銃を何門も装備していた。だが、それらの装備をもってしても、航空機が単独で敵の迎撃機をかわすことは普通は不可能だった。これに対抗するために、複数の航空機を集めて、それぞれの機に特定の区域を担当させる部隊が作られた。部隊は数千以上の航空機で編成させることもあり、敵の戦闘機にとって極めて迎撃しにくい存在となった。巨大部隊がその目標を爆撃せずに基地に戻らざるような状況になることはなかった。このような空の無敵艦隊による絨毯爆撃は地球の表面から都市を丸ごと一掃した。戦争が終結に近づくにつれ、空襲はドイツと日本の戦争経済を破綻させる上での最も重要な要因の1つとなった。終戦までに、1万8,000機を超えるB-24リベレーターが製造された。この数字は世界中の他のどの戦略爆撃機の数をも凌いでいた。 |
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