105ミリ榴弾砲M2A1

防御力 攻撃力
前面防御力 側面防御力 後面防御力 上面防御力 ダメージ 貫通力
10 10 10 10 140 76

仕様
口径 105 ミリ
射撃間隔 6 発/分
射程 11.3 km
重量 2260 kg

このカノン砲が試作品から量産に移るまでに要した時間は恐らく最長記録だろう。開発された時期がちょうどアメリカ議会が再軍備目的のために大量の公債を発行するのを躊躇していた第1次と第2次の世界大戦の間に当たったのが不運だったが、その一方、開発者はスケジュールに追われずに設計を改善する時間をたっぷりと取ることができた。
新型榴弾砲の開発作業は1920年に開始されたが、その時には、軍は購入に踏み切らなかった。再び改良が加えられ、1928年に軍によって試験が実施され、承認を受け、M1砲架を用いたM1榴弾砲としてマーキングされた。1934年に標準弾薬が使えるように再び改良が加えられ、名前をM2と変更された。その1年前の1933年に、砲架の改良作業が開始されたが、3年後になっても、依然として2種類の砲架の設計作業が続けられていた。長期に渡る数々の改造作業を経て、1940年までにM2砲架はついに完成した。この頃までに第2次世界大戦は既に始まっていたため、M2A1砲架をベースとしたM2榴弾砲の大量生産がようやく開始された。戦争中に、砲身と砲架の両方にさらに改良が加えられた結果、M2A2砲身とM2A2砲架が作り出された。
標準化のおかげで、砲身と砲架を自由に組み合わせることが可能になり、型とマーキングに数多くの種類が生じた。
この榴弾砲は軽量でコンパクト、しかも信頼性が高いため、すぐに真価を証明した。弾道学的には、同じクラスでこれより優れた榴弾砲は恐らくドイツ軍のLeFH 18だけであろう。M1A2はアメリカ陸軍の主要師団のカノン砲として、ヨーロッパ、アフリカ、太平洋で使われた。アメリカ軍は異なる部分の標準化作業を続け、最終的には、M5 76.2ミリカノン砲の砲身をこの榴弾砲の車台に搭載して対戦車砲が作り出された。この対戦車砲はその役割を見事に果たしたが、対戦車兵器としてはやや重過ぎることが判明した。
1942年にアメリカ軍はM3中戦車の車台に榴弾砲を搭載し、M7プリースト自走砲を製造した。終戦までに、8,500両以上の榴弾砲が製造された。